1970年にはエベレスト山頂からのパラシュート直滑降に挑戦したのですが、当時の日本人にとってエベレストは未踏の地。誰も知らないエベレストで初の試みをするのだから、しっかり映像を残そうと「どうせなら将来、ハリウッドの映画祭でオスカーをもらえるような映像に」と計画しました。
20歳の人が8000m級の山に行くと90歳の身体能力に落ちてしまうんですが、僕は80歳だからプラスして150歳くらいに加齢されるんじゃないでしょうか。人間の生存不可能な次元に入っていかざるを得ないのですが、それをどう超えるかという好奇心に突き動かされています。
僕のプレゼンテーションの原点は学生時代にあります。当時もスキーをするお金が必要だったから、スキー部の仲間達とダンスパーティーやスキーメーカー協力のバーゲンセールなどの企画を立て、いろいろな人に「この企画はこう役立ちます」と交渉していたんです。
これが出来たら死んでもいいと思っていますから。死んでもいいというのは自分の限界を知りたいということなんです。そういう執念や勇気みたいなものを持てるか持てないかが、人の実行力に差をつけるのではないでしょうか。
これからも「次はどんなことをしてみんなをビックリさせようかな」という、ちょっぴり「いじわるじいさん」気分で(笑)、自分も周りもドキドキ、ワクワクするような冒険に挑んでいきたい。それが、僕の終わらない夢です。
後から来た人たちに追い抜かれても、全く気にしない。標準タイムがあるのですが、それも僕には関係ない。ところが不思議なもので、頂上に近づくと追い抜いて行った人たちに追いつき、山頂には僕らが先に着くことも少なくありません。
体の老いと心の老いでは、心が先じゃないですか。僕らもやっぱり同窓会に行くと、「俺はもうダメだ」とか、「あっちが痛いこっちが痛い」「老人ホームはどうする」とネガティブな話題が湧いて出てきて、当然、自分もそういう話の輪に入っていくものだと思っちゃうんですよね。
まぁ、全部人間のやっていることなんていうのはね、“先人の肩”といいますか、ここに乗っかって、次はこっちに乗っかって…という繋がりだと思いますねぇ。全くゼロからの創造なんていうのはね、人類が初めてこの世に一歩を踏み出した時ぐらいじゃないですかね(笑)。
お陰で僕はエベレストからのパラシュート直滑降に成功し、映像はオスカーをもらうことができました。アメリカ前大統領のジミー・カーターさんは、僕の映像を20回以上観てくれたそうで「人間の勇気、夢をあきらめない姿に感動した」と言ってもらえて、そんな嬉しいことも起こるんです。
エベレストでお茶会をしたとき、外はマイナス25度。でも、絶対8500メートルでお茶会をやろうと決めてたんです。だから茶筅(ちゃせん)から何から全部持っていった。本当は100グラムでも軽いほうがいいのに(笑)。「お父さん、何でそんな無駄なもの」って息子や他のメンバーからは言われました。でもね、すごく効いた。8500メートルの高さでは交感神経が優位になって、興奮して眠れなかったり、落ち着かなかったりするんです。それがお茶を飲んでいるうちにスーツと心が静まって。
パラシュートを使って富士山を直滑降したのですが、「スキーとパラシュートを結びつけた」という斬新さが世界中のニュースになりましたよ。立て続けに新しいことに挑戦して記録をつくれたのは、自分でなければできない「オンリーワンの何か」を追い求めた好奇心の賜物でした。
僕は限界に挑戦することで「人類のフロントランナーでありたい」と思い続けてきました。今もその意識は変わりません。しかし、その根っこにあるのは、誰もやったことのないことをやってみたい、周囲を驚かせたいという、純粋に僕自身が楽しんでいる気持ちです。
気づけば「メタボな65歳」になっていた僕の心に、もう一度火をつけるきっかけを作ってくれたのは、父でした。スキーが大好きだった父は当時、「5年後の白寿(99歳)でフランスのモンブランを滑る」という目標を立て、日々鍛錬を積んでいたのです。
アップルの創設者であるスティーブ・ジョブズ氏が、若い人に「ハングリーであれ、愚かであれ」と講演していましたが、その通りだと思います。僕自身も非常にハングリーだったし、周りから「馬鹿」「あいつ何やってんだ?」と言われましたけど、それを恐れちゃダメ。
幼少の頃、僕は体がとても弱くて学校を休みがちでした。もし体が丈夫で100mを素晴らしいタイムで走れたら、違ったことをやっていたかもしれない。でも身体的に恵まれていなかったからこそ、誰もやっていない細かな隙間を見つけて突き詰めることができたんです。